2.元気になっただけでは厄払いにならない
槐耳は、若返り、生体時計を逆戻しする。
若返って病から解放されて元気になって、それは大変喜ばしいことである。
かつて病は、厄であり、穢れであり、お祓いして憑きものを除けるのが治療であった。ペニシリンとアスピリン以来の医薬攻勢がこの迷信を払拭して久しい。けれども、これで済まないと感じさせられる例が多々あり、やはり、単に迷信とだけ片付けられないと思えてならない。
世に、サメ人種と呼びたいような、一刻もじっとしていられない、そして、次から次に新しい刺激を求めていないと、1日1時間も過ごせない、という人々が存在する。求められていないので探しに行く。自他共に、目的が判然としない、あるいはさせないので、言うことに一貫性がない。こういう人種は他人にストレスを与えるが自分も相当のストレスを抱えていて、病に罹ったり、病にさせたり、忙しい。罹った場合は、大抵周囲が敬さずに遠ざかって行くから、かえって迷惑がかからない。
槐耳療法は、病治して厄落とさずという例を散見する。
治ってしまえば病は忘れていいので、苦しいことをことさら思い出さなくていい。ただ、そのもとになる自分の悪しき変化については、思い出さなければならないのである。二度とそうならないために。
副作用なく毒性なし、という意味では楽して治ったというとき、元気をサメに変えることがある。自分の厄払いをお忘れ無く。